123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960616263646566676869707172737475767778798081828384858687888990919293949596979899100101102103104105106107108109110111112113114115116117118119120121122123124125126127128129130131132133134135136137138139140141142143144145146147148149150151152153154155156157158159160161162163164165166167168169170171172173174175176177178 |
- This file was derived from
- http://www.gutenberg.org/cache/epub/1982/pg1982.txt
- --------
- 羅生門
- 芥川龍之介
- 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門
- の下には、この男の外に誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、きりぎ
- りすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみ
- をする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男の外
- に誰もいない。
- 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災
- いがつづいて起こった。そこで洛中のさびれ方は一通りでない。旧記によると、仏像や
- 仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたに
- つみ重ねて薪の料(しろ)に売っていたと云うことである。洛中がその始末であるから、
- 羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧みる者がなかった。するとその荒れ果てたの
- をよい事にして、狐狸(こり)が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手の
- ない死人を、この門へ持って来て、捨てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目
- が見えなくなると、誰でも気味を悪がって、この門の近所へは足ぶみをしない事になっ
- てしまったのである。
- その代り又鴉が何処からか、たくさん集まって来た。昼間見ると、その鴉が何羽とな
- く輪を描いて、高い鴟尾(しび)のまわりを啼きながら、飛びまわっている。殊に門の
- 上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉
- は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。ーー尤も今日は、刻限が遅
- いせいか、一羽も見えない。唯、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草の
- はえた石段の上に、鴉の糞(くそ)が、点々と白くこびりついているのが見える。下人
- は七段ある石段の一番上の段に洗いざらした紺の襖(あお)の尻を据えて、右の頬に出
- 来た、大きな面皰(にきび)を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めているので
- ある。
- 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は、雨がやん
- でも格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈であ
- る。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の
- 町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から暇を出さ
- れたのも、この衰微の小さな余波に外ならない。だから、「下人が雨やみを待っていた」
- と云うよりも、「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と
- 云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少なからずこの平安朝の下人の
- Sentimentalismeに影響した。申(さる)の刻下がりからふり出した雨は、未だに上
- がるけしきがない。そこで、下人は、何を措いても差当たり明日の暮しをどうにかしよ
- うとしてーー云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考
- えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を聞くともなく聞いていた。
- 雨は羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめてくる。夕闇は次第に空
- を低くして、見上げると、門の屋根が、斜めにつき出した甍(いらか)の先に、重たく
- うす暗い雲を支えている。
- どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる遑(いとま)はない。
- 選んでいれば、築地(ついじ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うえじに)をするば
- かりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように捨てられてしまうばかり
- である。選ばないとすればーー下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっと
- この局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつもでたっても、結局「すれば」で
- あった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたを
- つける為に、当然、この後に来る可き「盗人になるより外に仕方がない」と云う事を、
- 積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
- 下人は大きな嚏(くさめ)をして、それから、大儀そうに立上がった。夕冷えのする
- 京都は、もう火桶が欲しい程の寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮
- なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていたきりぎりすも、もうどこかへ行ってしまっ
- た。
- 下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗衫(かざみ)に重ねた、紺の襖の肩を高くして
- 門のまわりを見まわした。雨風の患のない、人目にかかる惧のない、一晩楽にねられそ
- うな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸門
- の上の楼へ上る、幅の広い、之も丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにし
- ても、どうせ死人ばかりである。下人は、そこで腰にさげた聖柄(ひじりづか)の太刀
- が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふ
- みかけた。
- それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人
- の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上か
- らさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚(ひげ)の中に、
- 赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばか
- りだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、
- しかもその火を其処此処と動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、
- 隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、ゆれながら映ったので、すぐにそれと知れたのであ
- る。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせ唯の者ではな
- い。
- 下人は、宮守(やもり)のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段ま
- で這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだ
- け、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。
- 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの屍骸(しがい)が、無造作に棄てて
- あるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。唯、お
- ぼろげながら、知れるのは、その中に裸の屍骸と、着物を着た屍骸とがあると云う事で
- ある。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その屍骸は皆、それが、
- 嘗(かつて)、生きていた人間だと云う事実さえ疑われる程、土を捏ねて造った人形の
- ように、口を開いたり、手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しか
- も、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなって
- いる部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(おし)の如く黙っていた。
- 下人は、それらの屍骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った(おおった)。しかし、
- その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。或る強い感情が殆悉(ほとん
- どことごとく)この男の嗅覚を奪ってしまったからである。
- 下人の眼は、その時、はじめて、其屍骸の中に蹲っている(うずくまっている)人間
- を見た。檜肌色(ひはだいろ)の着物を著た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のよう
- な老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その屍骸の一つ
- の顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の屍骸であろう。
- 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさ
- え忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」ように感
- じたのである。すると、老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺
- めていた屍骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるよう
- に、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
- その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行っ
- た。そうして、それと同時に、その老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。
- いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。寧(むしろ)、あらゆ
- る悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、
- さっき門の下でこの男が考えていた、饑死(うえじに)をするか盗人になるかと云う問
- 題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。
- それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢よく燃え上
- がりだしていたのである。
- 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的
- には、それを善悪の何れに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この
- 雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許す可
- らざる悪であった。勿論 下人は さっき迄自分が、盗人になる気でいた事なぞは と
- うに忘れているのである。
- そこで、下人は、両足に力を入れて、いかなり、梯子から上へ飛び上がった そうし
- て聖柄(ひじりづか)の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が
- 驚いたのは 云う迄もない。
- 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(いしゆみ)にでも弾かれたように 飛び上がっ
- た。
- 「おのれ、どこへ行く。」
- 下人は、老婆が屍骸につまづきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、
- こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人は又、それを行か
- すまいとして、押しもどす。二人は屍骸の中で、暫、無言のまま、つかみ合った。しか
- し勝負は、はじめから、わかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理に
- そこへねじ倒した。丁度、鶏(とり)の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
- 「何をしていた。さあ何をしていた。云え。云わぬと これだぞよ。」
- 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼(はがね)の色を
- その眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、
- 肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになる程、見開いて、唖のよう
- に執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死
- が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうして、この意識は、
- 今まではげしく燃えていた憎悪の心を何時(いつ)の間にか冷ましてしまった。後に残っ
- たのは、唯、或仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがある
- ばかりである。そこで、下人は、老婆を、見下げながら、少し声を柔げてこう云った。
- 「己は検非違使(けびいし)の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかっ
- た旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。唯今時分、
- この門の上で、何をしていたのだか、それを己に話さえすればいいのだ。」
- すると、老婆は、見開いた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。
- まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、殆、
- 鼻と一つになった唇を何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の
- 動いているのが見える。その時、その喉から、鴉(からす)の啼くような声が、喘ぎ喘
- ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
- 「この髪を抜いてな、この女の髪を抜いてな、鬘(かつら)にしようと思うたの
- じゃ。」
- 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、又前の
- 憎悪が、冷な侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると その気色(けしき)が、
- 先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ屍骸の頭から奪(と)った長い抜け
- 毛を持ったなり、蟇(ひき)のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云っ
- た。
- 成程、死人の髪の毛を抜くと云う事は、悪い事かね知れぬ。しかし、こう云う死人の
- 多くは、皆 その位な事を、されてもいい人間ばかりである。現に、自分が今、髪を抜
- いた女などは、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚(ほしうお)だと云って、
- 太刀帯(たちはき)の陣へ売りに行った。疫病にかかって死ななかったなら、今でも売
- りに行っていたかもしれない。しかも、この女の売る干魚は、味がよいと云うので、太
- 刀帯たちが、欠かさず菜料に買っていたのである。自分は、この女のした事が悪いとは
- 思わない。しなければ、饑死(えうじに)をするので、仕方がなくした事だからである。
- だから、又今、自分のしていた事も悪い事とは思わない。これもやはりしなければ、饑
- 死をするので、仕方がなくする事だからである。そうして、その仕方がない事を、よく
- 知っていたこの女は、自分のする事を許してくれるのにちがいないと思うからであ
- る。ーー老婆は、大体こんな意味の事を云った。
- 下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、
- この話を聞いていた。勿論、 右の手では、赤く頬に膿を持た大きな面皰(にきび)を
- 気にしながら、聞いているのである。しかし、之を聞いている中に、下人の心には、或
- 勇気が生まれて来た。それは さっき、門の下でこの男に欠けていた勇気である。そう
- して、又さっき、この門の上へ上(あが)って、その老婆を捕えた時の勇気とは、全然、
- 反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに迷わなかっ
- たばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、殆、考
- える事さえ出来ない程、意識の外に追い出されていた。
- 「きっと、そうか。」
- 老婆の話が完ると、下人は嘲(あざけ)るような声で念を押した。そうして、一足前
- へ出ると、不意に、右の手を面皰から離して、老婆の襟上(えりがみ)をつかみながら、
- こう云った。
- 「では、己が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をす
- る体なのだ。」
- 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老
- 婆を、手荒く屍骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。
- 下人は、剥ぎとった桧肌色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へ
- かけ下りた。
- 暫、死んだように倒れていた老婆が、屍骸の中から、その裸の体を起こしたのは、そ
- れから間もなくの事である。老婆は、つぶやくような、うめくような声を立てながら、
- まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、
- 短い白髪を倒(さかさま)にして、門の下を覗きこんだ。外には、唯、黒洞々(こくと
- うとう)たる夜があるばかりである。
- 下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでいた。
|